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    昭和四十四年十一月十一日  朝の御理解       入力:渕上順子
       第七九節

 【商売をするなら買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。
人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。】

 その( ? )さが御蔭を受けておる、又御蔭を落とす元になるのだ、といったようなものを、この御理解の裏から感じるのですね、体はちびる( ? )その上大事にせよと
( ? )そいだから、信心に例えて( ? )問うわけなんです、気心がなっていかない、本当のいうなら御蔭、でもそれだけでは本当の幸せの元にはならん、(  ?  )しばらくでもですね、遊びよる感じがあるなら、まあしてやったらよかろと私が申しました、ところが自分ところもそれから、何日か向うから、言うてやらにゃことですね、何日まででいいからとこ言われる、ところが自分方も四,五日先には又まとまった金が要る事になっておる、だから普通で言うなら、もう「なかばの」ちうてから断っても良い、同業者だと私思うんです、そりゃもうほたっときなさりゃよかろうと、まあ私も考えにゃ、そういう風に思うた、ところがそこが、佐田さんのまあ信心なんですよね、それを断らずに神様が貸せと仰るなら貸すという腹で、すからこそ伺うておられるわけなんです。

そいで( ? )頂いたら、この【範】という字を頂いた範という、師範..この師範の範ですね。
竹冠に車を書いておのれと書いてあるでしょう、竹冠に車という字を書いておのれと....
そいで私が申しました、それは竹冠ですから、向うの困っておる、どうぞと言うておること、こちらも素直に聞いてあげる事がまず大事だとこう思った、虫のいいやつじゃいけんぞと(? )本当に困ってるのなら、相互いが..ね..相互いというのは、(?)だけじゃない、商売人だってやっぱ相互い.でなからなきゃいけんです。

私しゃ、車という字をこう( ? )はあこりゃあ、回さにゃいけんと思うた、車ですから、ただしその溺れる、おのれがまわんごたることじゃでけん、なかならできん。無理してからじゃいかんていう、まあたとえ何日かでも休んどる金があるんならです、先の事も不安と言ったような心配、これが払えん時には家の方はどうするじゃろうか何てんて、もう感じずにです、そこに遊んでおる( ?)とこにあるんならです、それを信じて回してやるがいい、「貸してあげなさい」と言うて、そのう申しました事..ね。

又、そこ商売人に限らずなんですけれどもね、やはり回転しなければだめです、どんなに儲かっても、その商品が一年にもなるようなことじゃつまらん、それこそ目先が二銭損のようであっても、海外行きゃ売れるから、いわゆる回転なんです、三べん回った、五へん回るね、、その回し方なんです、その回し方の中にです、今日私が言うルーズとか、ズサンとか..ね
ずうずうしいとかね、やっぱ目先のこすい事を言わず思わずです、出来れる信心..ね、
いわゆる、それを【範】ですね、こうまとめていうことですから、商売なら商売人としての範を示すと言うか、相手の人がルーズな人であってもです。佐田さんと付き合いよるうちにです、ああ佐田さんの生き方は素晴らしいと、リンクするぐらいなものをです。
示して行く為にも、やはり貸さなきゃいけないんだということになるんです...ね。
これを貸したらひっくり返りゃせんだろうかと..思う.は..その辺のところをです、私は信心でなさせて、これ特に商売人は..ね、それを自分の利益になるから、いいかげんにまわすというのでなくてです、そこをもう信心です...ね、それこそ、人が喜ぶことの為にでも回さにゃいかん。

売り場、買い場、(んん)自分方だけで回さや、そりゃ算盤とれば自分方でもどんどん回ってた、回ることの方が利益につながるですけれどもです、御蔭にはつながらん..ね、
そこんところを私大きな豊かな心を..ね、信心なら売り先も..ね、その方が自分も得ぞとこう言う、信心をさせてもらう。

私それを頂いてから、ああ、素晴らしいそのこう頂き方があるもんだなあと、どうも私共、だいたいが(  ?)根が商売人ですから、自分の手元、自分の手元という、自分のその算盤の方だけをとる、相手の算盤なんか全然とらない。、それが商売人だというように私共は思うてきた。もう( ?)商売人の根性かもしれない、けれども信心をして、商売をさせて頂くなら、( ?)大事にされる、しかも自分も得に成るという御蔭でなければいけないです。

先ほどからね、経理に行かれる方の話をしましたが、これがその放しぷりというですか、その回す、お金を回す、儲かったら自分はポーンとこう、又神様へ放して行くという、そういうところが、しかもそれが、その日の内に、それが大分からでもバアーとタクシーをとばしてやって来ました。というような生き方なんです、( ? )どころか明日は(? )といったような、見苦しさが全然ない..ね..明日また( ?)行く時にお祝いしよう。といったところにです、私は此の方が御蔭受けられる元は、やはりその、そういう教祖様が仰る、そこに少しばかりでも、金目のものがあるんだと思うんですよ。
昨日なんかは大牟田からやって来たんです、大牟田からタクシー飛ばしてやって来たんです、お礼に...ね。

また明日( ?)行かにゃいけんから、そん時お願いしますいったような御理解ばい。
そこんところがです、訳はまだ分からんなりの、何とはなしに御蔭の受けられる、私は
( ? )これは商売人だけの事じゃありません、人間関係なら人間関係ということにおいても、すべての御蔭を受けて行くという意味においても同じ、あちらも立ちこちらも立ち、そして自分だけが犠牲になっとらなきゃならん、と言ったようなことでは一つもない。自分も得をしておる、自分もたちいっておる、それに自分の周囲のすべてのことを大事にしてゆけということなんです..ね。

例えば一つのお金を回すにでもです、自分の都合がよい..のために回すというものではなくて、その回す事によって、(  ?  )喜んでもろうたり、それが本当の意味でそのお金が活用できよんなら、自分のことじゃない、活用できるということが、いわゆる信心でいう御蔭に繋がるのだ、この辺が私すっきり出来たら、素晴らしい商売の御蔭を頂くだろうと思うですね。

私共がこういうのが、少し解っておったら..ね.すると金光様の先生に成らんでも、大商人に成らせて頂けとったじゃろうと思う、ところが目先がその汚い、目先のことばかり、自分の算盤だけしかとらんで..ね、とに角商売には儲かることだけ、儲かることには手段を選ばん、というような、生き方でやってきた所にです、結局行詰まりがあったんだと自分で思います。

商売をさせて頂くなら..ね.買い場売り場というて、もとを仕込むところと、売り先を大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら、八銭かけよ、こういうところが大事ね、こりゃ例えば十銭で売るもの八銭でかけると、( ? )どこにとられるということは、その事だけ、そんなことだけじゃないですね、普通の人がやれないことです、ここんとこは、私共はそうだった、ひとが十銭で売るものは十一銭で売る方が御蔭だと思うとった。
又、それを高く売れることが商売人の腕のように思うておった、考えたら根本的に違った。そこに自分が立ちゆくようであって、自分が立ち行かない、元をつくっておるわけですね、

( ?)を叩く、そして他所よりも高く売ると、もうちょっと考えただけで、これで御蔭にならんことが分かりますけれども、実際それに当面しておる商売に私共でも、、信心させて頂きながら、商売させて頂いてきた上でただ御蔭を、いわゆる儲かるということだけを、その代わりさっきの経理の話しじゃないけれども、儲かったらスパッと人の出来んごたる御用でもさせてもらおうといったような、そこだけでただつながっておった、という感じの商売であった、目先は二銭損のようでもという、そもそも二銭の損もしきらん。数が売れるから、かえっていわゆるくるまん..ね。

三べん回るところ五へんも六ぺんも回る、しかも喜ばれながら回る、御蔭だ、いわゆる
不意に御蔭が活用出来る、そういうことが天地の機感に叶うから、思いがけない、いうならば御蔭を、受けて行く事が出来る、そういうところは、私共一つも知らなかった..ね..これはもう教祖がそう言うてくださるから、教祖がそう教えてくださるからと素直に受けただけでです、いわゆる教祖の信心によって、この裏付けをちゃんと下さるはずなんですけれども、それを、よう頂ききってなかったと私は自分で思うです。

そしてやっぱり、今でもそういう、汚い根性というかね、目先のことだけしか思わないような所がやっぱりちらちら出てきて、自分でいやになるように思う、「はあもう、合楽の先生はかけ引きが強い」ちいうてから皆なから言われるのも、そういうとこに確かに出てくるからそう言われる。
何十年立ってその商売で、そう言う、いやな( ? )こびり付いおる、ホッと気づかせて頂いて、本当に限りなく、美しゅうならせて頂かなきゃならん、という事をまあそういう方向に姿勢だけは向いておるですけども..ね.まだだ本当のスッキリした美しさが出来ません。だから自分サイドの身体はちびるものじゃないから、働くがよいと仰る。
いよいよ教祖的生き方と申しましますかね。

忠実な生き方..ね、人が一時間働くなら二時間働く、人が( ?)三べんかよう、教祖の神様は御伝記に有りますね、松葉を掻きに行かれます、友達は日に二回しか行かないけれど、教祖は三べん行ってらおられる、そしてその( ?)を神仏にお参りをされる、費用のねんしゅつをなさっておられます、そういう生き方、ねっ教祖様、そこに例えば身体はちびるものではないといったような体験をです、身をもって私は感じておられたに違いはない。その一ぺんの人よりも、働かせてもらうその働きが、神仏の喜ばれることの為に、行じておられるというところにです.......(途中で切れて、テープが終わりました。)